第五話「たましいをくらうもの



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 田村邸は古い家だった。先祖代々の土地であり屋敷なのだろうが、その外観はまるで武家屋敷である。いかにもと言った造りの門から家の玄関までの数メートルほどの空間はちょっとした庭園のようになっており、その間を縫うように石畳が敷き詰められている。入り口からは植え込みに隠され、屋敷の全様を望む事は不可能だった。これでは家人が在宅中かすら確認できない。造りが古いためか門の周囲に呼び鈴など気の効いた物も無く、断りを入れる相手も見当たらない。

「ま、いきなり番犬に襲われるって事も無ぇだろ」

 冗談混じりに呟いて、九鬼は門を潜った。


 一歩、敷地に足を踏み入れたその瞬間
 かすかな違和感を感じたかと思うと見る間に周囲の空気が変化する。

「……当たり、だな。しかしあの女、知っててわざと黙っていやがったか」

 敷地外とは段違いの、怖気立つほどの妖気の密度。見るまでもなく、人間には決して放つことの出来ない気配。道グループの調査能力が事実どれほどのものであるか九鬼は知る由もないが、妖魔を相手にし退魔士を雇うような連中がこの程度の結界を見破れぬわけがない。
 そう、道路と屋敷との境界を跨いだ瞬間に感じた違和感は、紛う方無く妖魔が張った結界――妖気が外に洩れるのを防ぎ、同時に人払いの効果を持つ、妖魔自身が作り出したテリトリーだった。その中に入ったからにはこちらの存在は向こうに気付かれたハズだが、何故か一向に動く気配が無かった。普通の人間だと思って侮っているのか或いは別の目的があるのか、それは判らなかったが、何れにしても今すぐ仕掛けてくるつもりは無いらしい。ならば相手の誘いに乗ってやるのも一興だった。

 九鬼は大股で玄関に近づき、引き戸に手を掛ける。

 ガラッ

 耳障りな音を立てて戸が開いた。
 屋敷の中に明かりは無く、薄暗い闇が廊下の奥まで続いている。

「おい!誰も居ないのか?」

 叫んだ声が静寂に包まれた屋敷内に木霊する。残響音がうねりとなり、まるで地の底から響いてくる呻き声のようだった。―――いや、本当にあの闇の向こうは地の底まで通じているのではないか?そう錯覚させるほど、それは不気味な響きだった。


「どちら様……かしら?」

 呻き声に紛れて不意に、若い女の声がした。耳元で囁くような、それでいてよく通る声。
 その声に合わせ、薄暗い廊下の奥でスルリ……と闇が動く。

 するするする……

 布擦れの音を立てながら、ソレはこちらに近づいて来た。人の形をした闇の塊、或いは実体を持った影。その顔の部分だけが白く、闇の中に浮かび上がる。
 そしてソレは九鬼の目の前で、闇を纏った女の姿へと変じた。

 まるで喪服のような、黒一色で染め上げられた和服を着たその女は、確かに顔形こそ美しかったがどこか作り物染みていて、黒い裾から覗く白磁のような肌と相まってさながら日本人形のようだった。不用意に触れれば折れてしまいそうなほどに細い手足と病的なまでに白い顔、そして焦点の定まらぬ瞳がこの女の脆さを端的に、そして如実に表している。

 九鬼は右目で女を凝視すると僅かに眉をひそめ、それから口の端を吊り上げ笑った。


「どちら様、かしら?」
 女の唇が微かに揺れる。今にも消え入りそうなか細い声は、だが奇妙な事にはっきりと九鬼の耳に届いた。

「あんたの旦那の古い知人さ。ちょっと話があるんだが、いいかな?」
 口から出任せとはこの事だ。女は困ったように小首を傾げ
「主人は……ただいま留守にしておりますが」
「行方不明なんだろ?知ってるよ。その事でアンタに話があるんだ」
 一瞬、眼を見開いた女と視線が絡み合う。驚愕とも怒りとも判断のつかない鈍い光を宿したその瞳は、ほんの一時だけ感情を顕にし、だが次の瞬間にはまた虚ろに戻っていた。

「警察……いえ、探偵の方、ですか?」
「旦那の知人だ、と言っている。信用できないのか?」
 口元には笑みを浮かべつつ視線で女を威圧する。
「……そうですか。こんな所で立ち話も難ですし、どうぞ、お上がり下さい」
 並みの人間なら震え上がるようなその凶眼を平然と受け止め、女はあっさりと九鬼を屋敷に招き入れた。

「それじゃぁ、邪魔させてもらうぜ」


 ※


 九鬼を先導し、女は奥へ奥へと廊下を進んで行く。両者ともまったく口を利かず、足音と布ずれの音だけが響く無言の時間がしばらく続いた後、ふと何かが九鬼の鼻腔をくすぐった。その場違いとも思える匂いに思わず口を開く。

「花の匂い……か、コレは?」
「あら、お気づきになりました?」
 女が嬉しそうに笑う。確かに花の香りらしいそれは、奥に進むにつれどんどん強くなっていった。
「香を焚いておりますの。自家製ですのよ」
「ふん」

 廊下の先に目をやると、襖の隙間から光が洩れているのが見えた。どうやら匂いはそこから漂って来ているようで、近づくにつれ匂いはさらに強くなり、座敷の前に立つ頃にはむせ返るほど強烈な匂いになっていた。
「ふふふ、こちらです」
 何が可笑しいのか女は笑いながら襖に手を掛け、ゆっくりと開け放った。途端に光が溢れ、それと同時に室内に篭っていたモノが一気に流れ出した。目に見えるほどの濃度となった臭気が二人を包み込み、嗅覚を麻痺させるほどの強烈な匂いが鼻を衝く。

 「……ぐっ」

「さぁ、中へどうぞ。お茶を用意致しますわ」
 鼻を摘んで顔を顰める九鬼とは対照的に、女は満面の笑みを浮かべていた。



 無駄に広い座敷の中央、用意してあった座布団の上に胡座を掻くと、九鬼は懐から取り出した煙草に火を点ける。

 煙草の紫煙がほんの少しだけ室内の臭気を和らげてくれるが、それも気休め程度にしか過ぎない。『むせ返るほどの』と言う喩えすら生ぬるい、匂いだけに満たされた空間。呼吸をするたび、鼻腔から容赦無く侵入した臭気は無遠慮に脳を刺激し、ただ座っているだけでも気分が悪くなってくる。頭の内側で何かがガンガンと鳴り響き、危うく意識が飛びかける。それほど不快な部屋であると言うのに、不思議とここから出ようと言う気にはならなかった。

  ―――妙だ。

 心の片隅で警報が鳴るが、それを危機感と認識する前に思考が乱れた。
「どうぞ」
 突然、目の前に湯呑みが置かれる。顔を上げるとこちらを覗き込む女と目が合った。
「どうかしましたか?顔色が悪いようですが」
「あ、ああ。大丈夫だ……」
 そんなはずは無い、明らかに異常だ。
 自分の体が己の言う事を聞かない。その現実感の無さはまるで悪夢の中の出来事のようだった。

「さぁ、これをお飲みになって下さい。少しは気分が良くなるはずですわ」
 女が差し出した湯呑みを受け取った九鬼は
「さぁ、どうぞ」
 言われるままに中身を飲み干した。
 それを見届け、女は九鬼に擦り寄る。


「ところで」

 濡れた唇が近づく

「ねぇ、貴方」

 熱い吐息が耳をくすぐる

「この逞しい身体も」

 冷たい手が胸板の上を撫で回す

「結局は肉の塊なのに……」

 細い身体が圧し掛かってくる

「どうして『生きて』いるのか」

 布越しに触れる柔らかな乳房

「不思議だと…思いませんか?」

 九鬼は答えない、答えられない。額に玉のような汗を浮かべ、必死に苦痛を堪えているようなその表情からは微塵の余裕も感じられない。最初から答えなど期待していなかったのか、男の顔を愛しそうに撫でながら、女は続ける。

「命の源は何か、心の在り処は何処か……」



「魂とは何か?考えた事は、ありますか?」

 その言葉を合図にしたように

 九鬼の意識は、爆発した。

 止まらない。想いが。思考が。荒れ狂う。
 怒り、泣き、笑い、歯止めの利かなくなった感情が一気に溢れ出す。
 溜まっていたモノを一気に吐き出すように、膨張した意識が肉体の束縛を逃れ、際限なく知覚が拡大していく。拡散していく。
 同時に自分が、己という個が、自我が際限なく薄れ霧散していく。

 『九鬼 馨』が『世界』に溶けていく。

「あははっ!そうよ、全て吐き出しなさい!全て、曝け出しなさい!」

 畳の上でのたうつ九鬼の身体からは得体の知れない黒いモヤが止め処なく噴き出し、その中から時折、眩しい閃光のようなものが垣間見える。黒いモヤはやがて旋風となって室内を吹き荒れ、壁へ、天井へと吸い込まれてゆく。

「―――ふ、アハッ!素敵。素晴らしいわ貴方!こんなに激しい『想い』は初めて!これがあれば、これを注ぎ込めば今度こそ、今度こそあの人は私のモノになるわ!!そうよ、動かないただの肉の塊なら、与えてやれば良いだけの話ですもの!命を!心を!魂をっ!アハハハハハハハッ!!

 暴風に晒され服が乱れるのも意に介さず、女は狂気に取り憑かれたように笑い続ける。


 と、突然
 流れが止まった。

 室内に静寂が戻る。

「あら、もう終わりなの?」
 女は小首を傾げる。あの勢いならばもっと長時間続くかと思われたが、まさか短時間で一気に流れ出てしまっただけだろうか?ならばこの男は、期待したほどのモノは持っていなかったと言う事になる。女の顔に、目に見えて落胆の色が浮かんだ。
「期待外れも良いところだわ。まったく、この役立たずの死体はどこに捨てたものかしら?」

「ご期待に副えなくて申し訳なかったな」
 訝しむ女の目の前で、男の身体がむくりと起き上がる。首をコキコキと鳴らしながら立ち上がった男は苦笑交じりに呟いた。
「やれやれ……様子見のつもりがまさか、こんな手に引っかかるとはな」

「……ど、どうしてっ!?」
 まさか男に意識が残っているとは露ほどにも思っていなかった女はパニック寸前の悲鳴を上げ、対して平静を取り戻した九鬼は懐から煙草を取り出すと、火を点けて軽く一服する。
「危ねぇトコだったが、おかげでカラクリが全部読めたぜ」
 紫煙を吐き出しながら九鬼は、口の端を吊り上げて笑った。

「『ソイツ』をどこで拾った?いや、そもそも自分が何をしているか解っているのか?『ソイツ』を利用してるつもりか、本気でそう思っているのか?」
「こ、こんな事は今まで一度も…何故ッ、起きているの!立っていられるの!?」

 狼狽を隠さず喚く女に苦笑を浮かべつつ、九鬼は答える。
「さっきの湯呑みの中身は、この匂いの成分を濃縮したものだな?その幻覚作用でオレの意識を不安定にし、肉体と意識を乖離させようって魂胆だったようだが……退魔士――いや、魔術に関わる者はすべからく、強い精神力が要求される。つまり、あの程度のクスリで魔術のプロを引っ掛けようってのが、そもそもの間違いなんだよ」
 言いながら九鬼は自嘲する。そんな手に半ばまで引っかかった自分も、まだまだ修行が足りないな、と。

「さて、今度はこっちの質問に答えて貰おうか?」
 九鬼は唇の両端を吊り上げ、笑う。全てを見透かし嘲りに満ち満ちた、悪魔の如き笑み。
「『ソイツ』はアンタに何て言った?」
「……」
「まぁ、わざわざ聞かなくても想像は付くがな。当ててやろうか?…そうだな、『旦那を生き返らせてやるから、そのために必要な魂を集めてくれ』と言ったところか」
 ビクッと女の身体が震える。その反応に気を良くしてか九鬼はますます饒舌になる。

「知ってるぜ、アンタら夫婦の不仲は近所でも有名だったからな。旦那は毎晩毎晩、女遊びばかりしてたんだろう?アンタにはそれが我慢ならなかった。そしてとうとう我慢の限界に達したアンタは……」
「ええ、えぇそうですとも、その通りですわ。良く、お調べですのね。仰る通り、主人を殺したのは私です。随分と呆気ないものでしたわ。ちょっとお腹を刺したら、血が、止まらなくなって。そしたら、可笑しいんですのよ。すぐに動かなくなってしまって。畳を掃除するのが大変でしたけど、臭いが、なかなか取れなくて……うふっ、ふふふふふ

 もはや観念したのか、女は自らの行為を独白しながら始めは自嘲気味に、やがて肩を振るわせ笑い出す。だが、狂ったように笑うその目には涙が浮かび、一筋頬を伝う。
「でも、もう良いんです。他の女のところに行ったあの人は居なくなってしまったけれど、私には、私だけを見てくれるあの人さえ居れば」
 まるで熱に浮かされたような女の、その唇が淀みなく言葉を紡ぎ出す。
「あの人は不完全だったんです。だから、そう。心を――魂を集めて、不完全な部分を補えば。それをあの人の身体に注ぎ込めば、私の理想通りの、私だけを見ていてくれるあの人が――」

「フン、まるでフランケンシュタインの怪物だな」
 くだらない、と言わんばかりに九鬼は吐き捨てる。
怪物?いいえ、違うわ!私の、私だけのあの人を!!
「怪物で無ぇなら人形だ。完全に、自分の思い通りになる人間なんぞ、人間とは言わねぇ。それは只の人形だ。人形相手に愛だの何だの語るのか?ハッ、目出度い女だな」

「黙れぇっ!!」

 瞬間、九鬼の体が強烈な力で吹き飛ばされ、受身を取る間もなく壁に叩き付けられる。

ぐはぁっ!?
 意識が遠退きそうになるが、全身の痛みがそれを許さない。
 何が起こったのか見極めようと目を凝らす九鬼の視界に映ったのは、まるで大蛇のようにうねりのたうつ巨大な木の根だった。畳から生えるように突き出したソレは、ソレ自身が意思を持っているかのように再度九鬼に襲い掛かる。
「クソッ!」
 咄嗟に身を屈め横殴りの攻撃をかわすと、目標を失った根の化物は背後の襖を打ちつけて深々とめり込んだ。

「……襖、だと?」
 先ほど叩きつけられた時の衝撃から考えて、かなり硬質であった事は間違い無い。

 ……ならばこれは襖などでは無い。これは……

 九鬼がその正体に思い至ったのとほぼ同時に、畳の床がグラリと波打ち、揺れた。
「貴方なんて要らない。貴方の魂なんて、もう必要無いわ!私の邪魔をするなら……消えてしまいなさいッ!!
 その声に合わせ部屋全体が臓腑のように蠢き、畳と言わず天井と言わず、あらゆる場所から触手のような根が生え出し、さらに天井からは人間の頭部ほどもある巨大な花が垂れ下がった。蓮華にも似たその花の茎は、まるで逆さ吊りの人間のような形に歪み、膨らんでいた。

 その花が、九鬼へと向き直る。
 白く美しい花弁の中心に開いた穴、その縁には牙にも似た無数の突起が並び、まるで飢えを訴えるかのように不気味に蠢き、開閉を繰り返していた。
「チッ、この部屋全体……いや、屋敷そのものを媒体にして実体化しやがったか!」
「ふふふ……これでもう、逃げ場はないわ。大人しくこの子の餌になりなさい」
 そう勝ち誇った女を、九鬼は一笑に伏した。
「ホントに目出度ぇ女だな、テメェは。その化物を飼い馴らしてるつもりでいるのか?」
「減らず口を……その喧しい口を閉じろッ!!

 ヒュヒュンッ

「っと!?」
 女の激昂に反応したのか、九鬼の前後から触手が襲い掛かる。咄嗟に横に飛んでそれを避けるが、受身を取って起き上がる瞬間を狙い別の触手が襲いかかった。痛烈な一撃が九鬼の体を打ち据える。
「ぐぅッ…」
「無駄よ、逃げられはしないわ」
「…ッの」
 口腔に溜まった血を吐き出し、懐から素早く呪符を取り出す。

「誰が逃げるかよ!いつまでも調子に乗ってんじゃねぇぞッ、クソ女ァ!!


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