都内では一部の例外を除き見る事が少なくなった平屋の日本家屋。未明も過ぎ東の空が白み始めた頃、武家屋敷と呼ぶのが相応しいその邸宅の前に一台のタクシーが止まり、開いたドアからスーツ姿の男が降り立った。
男を吐き出した後部座席のドアが音を立てて閉まると、タクシーは閑静な住宅街にエンジン音と排気ガスを撒き散らしながら朝靄の中へと溶けて行った。
男は緊張した面持ちでスーツの襟元を正すと『田村』と書かれた表札が掛かった、家の古さを端的に表している引き戸の門を潜り、その先に見える玄関に明かりが灯っていない事を確認して安堵の溜め息を吐いた。
だが、男が玄関の前に立ち鞄から鍵を取り出すと、まるでそれを見計らっていたかのようにガラリと目の前の戸が開いた。
「……遅かったのですね、あなた」
戸の向こうは闇に包まれており、その闇の中から染み出したかのように黒い、喪服のような着物を着た女が闇の中に佇んでいた。口振りからして男の妻なのであろうその女は、責めるような、そして恐ろしく冷めた目で男を凝視している。
不意打ちを受けた男は内心、心臓が飛び出すほど驚いたが、その動揺を気取られまいと慌てて言葉を絞り出した。
「何だ……まだ起きていたのか?こんな時間まで」
しかし視線を合わせる事は出来ず、返事を待たぬまま妻の横を素通りして玄関に上がると、寝室に向かいながらネクタイを外して上着を脱いだ。妻は夫の後を追いながら律儀にそれを受け取り、軽くたたんで腕の中に収めるが、きっちり反論するのも忘れていない。
「その、『こんな時間』まで、何処にいらしてたのですか?」
また始まった、と思い男はうんざりする。彼の妻であるところのこの女は、何かにつけて夫を束縛しようとする傾向があった。やれ今日は何処へ行っていた、誰と会っていたのだと子細を根掘り葉掘り聞き出そうとし、少しでも気に障る事があったならネチネチと夫を責め立てる。確かにこの女は旧家の一人娘あり、男は婿としてこの家に入った身である。妻に頭が上がらない立場ではあったから、初めはそれも我慢していた。所謂玉の輿――この場合は逆玉か――で結婚した事もあったし、妻もこれ以上は望めないほど器量良しだった。
そう、我慢すべきだと思っていた。自分が耐えていればそれで丸く収まるのだ、と。だが我慢するにも限度というものがある。結婚して一年ほど経った時に彼女の両親が事故で亡くなり、それを機に溜まっていた鬱憤が爆発した。男は毎晩のように遊び歩くようになり、あちこちに金をバラ撒いては毎回違う女と夜を明かし、家には殆ど居着かなくなっていた。
それでも妻は激昂するでもなく、静かにじわじわと男を責め、それが嫌で男はさらに家に寄り付かなくなる。悪循環である。
だが、事ここに至ってとうとう男が切れた。
「俺が何処で何をしていようと関係ないだろう!?お前は黙って俺の言う事を聞いていればいいんだよ!!」
「そんな事を言って、また他の女性のところに行っていたのでしょう?」
図星を指され、男は完全に開き直った。
「ああ。ああそうさ、確かにその通りだよ。だがそれがどうした?俺はもう、お前みたいな窮屈な女は御免なんだよ!!どうせこの家の財産の半分は俺の物でもあるんだ。お前なんて居ても居なくても同じ……いいや、いっそ居なくなってくれた方が清々するッ!!」
一気に捲くし立てられた妻は何も応えられずに俯いたまま震えていた。怒りに肩を震えているのか、あるいは涙を堪えているのか、それは分からなかったが。
一方、今まで溜りに溜まった物を吐き出した男は解放感に浸っていた。これで向こうから離婚するとでも言い出せば願ったり叶ったり、婿に入ると同時に養子縁組をしているのでこの家の莫大な財産の半分は既に自分の物である。慰謝料を請求されてもそれほど痛くはない。いや、こんな女と別れられるのなら慰謝料を幾ら払っても良い気分だった。幸いにも二人の間には子供が居ないので養育費の心配も無い。
男がそんな算段を巡らし、勝ち誇った笑みを浮かべたその時
ドスッ
軽い衝撃と共に、腹部が熱くなるような違和感を感じた。何事かと思い視線を下げると、何かが腹に垂直に突き立っていた。
それは妻の手にしっかりと握られた、ナイフ――いや、包丁?
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