風が強かった。
陸地から海へと流れ込む風の動きが、立ち並ぶビルによって乱され複雑な気流を作り出す。
そのビル風に煽られ、白と赤の布地が大きくはためいた。
アタシは周囲でも一等背の高いビルの屋上から湾岸線を走る道路を見下ろしていた。ここからなら、広範囲を一目で見渡せる。アタシの得た情報によれば、ターゲットは間も無くこの下を通るはずだった。
そう、アタシは彼女――烏丸鴉也子と名乗る女性の依頼を受けた。彼女が提示した法外な依頼料に目が眩んだのも確かだが、それよりも九鬼と言う男が許せなかったのが、やはり最大の理由だろう。
女を自分の欲望を満たす為の道具としか思っていない男。彼女から聞いた九鬼の人物像はそう言ったものだった。これまでも数多くの女性を辱め、時には死に至らしめる事もあると言うその男は、だが法に裁かれる事もなく今ものうのうと生きている。そして彼女の、妹同然に育った女性も奴の犠牲者の一人だと。確かにアタシがその筋のコネを使って調べても、得られた情報は全て彼女の発言を裏付けるに足るものばかりだった。
例え男にどんな理由があろうとも、そんな事が許されていいハズが無い。怒りに震える右手に、アタシはそっと左手を添えて昂ぶる気を落ち着かせた。相手は今までの、ただの悪党とは訳が違う。何でもその男、『陰陽道』とか『式神』とやらを使い、妖魔と呼ばれる怪物を退治するのを生業としているらしい。本来ならば眉唾物の話と一笑に付するところだろうが、生憎とアタシは、そう言った尋常ならざるモノの存在を身をもって知っていた。
『……この、化け物めっ』
アタシは頭を振って雑念を払い、再び眼下を見下ろした。流石に深夜ともなれば交通量が少なく、人気も殆ど無い。これなら多少暴れても問題は無いだろう。そんな事を考えているうちに、視界の隅に目標らしきバイクが映った。
眼を凝らす。
獲物を捉える鷹の眼のように、アタシの眼はしっかりと奴の姿を捉えた。ヘルメットも被らず長髪をなびかせて走る黒衣の男……間違い無い。そう確信した瞬間、バイクの速度と地上までの距離を直観的に見切り、アタシは半ば反射的にビルの屋上を蹴った。
宙に投げ出された身体が重力に引かれて下降、瞬く間に地表が近付き標的のバイクが視界の中でグングン大きくなってゆく。バイクの走行速度とアタシの落下速度、二つの運動エネルギーの直撃を受けて生身の人間が耐えられる道理は無い。
このまま狙い違わずヤツの直上に落下すれば、完全に不意を突けば、例え退魔士だろうと、如何な手練だろうと、何の備えも無くては対処できない。そう踏んでいた。
―――だが。
アタシの予想に反して突然、バイクの速度が落ちた。下は障害物もない直線道路、速度を落とす必要性は無いハズなのに。結果として目測が狂ったアタシは、そのままバイクの十数メートル手前に落下した。着地する寸前、突き出した足でアスファルトを踏み砕き、その衝撃をもって落下のダメージを相殺する。それでも殺し切れなかった衝撃を膝と股関節をクッションにして可能な限り吸収し、同時に両手で地を打って受身の要領でさらに衝撃を緩和する。僅かに足が痛んだが、それ以外は特に問題無い。基より普通の人間とは、身体の出来からして違うのだから。
アタシが立ち上がった時には周囲にアスファルトの残骸が飛び散り、足元には小さなクレーターが出現していた。
「何だ、テメェ……人間か?」
バイクはクレーターの縁ギリギリのところで止まっていた。シートに跨ったままの男が発した言葉が、アタシの心に少なからず波風を立てた。
『人間か?』
疑問形。人間である事が疑わしいと言う意味。ならば人の容をした人で無い者、それを何と呼ぶ?
―――待て、待て待て落ち着け、落ち着くんだアタシ。ここで冷静さを失ったらヤツには勝てない。
「……始末屋だよ」
たっぷり2秒待ってから、アタシは言葉を続けた。
「アンタ……九鬼馨に間違いないね?」
「おいおい、今のはオレを狙ってたんだろ?今さら聞くか、そう言う事をよ?」
「一応、確認しただけよ。アンタを始末するのがアタシの仕事……覚悟しなさいッ」
「い、や、だ、ね」
アタシは一足飛びに間合いを詰めてバイクに跨ったままの男に殴りかかる。怪しげな魔術を使うヤツならば、それを使われる前に速攻で決着をつけるのみ。
だが、男の顔面を捉えたと思ったアタシの拳は呆気なく空を切った。男は上体を大きく反らし、バイクから転がり落ちるようにしてアタシの攻撃を躱わしていた。意外と格闘慣れ……いや、喧嘩慣れしているのか?
「危ねぇなオイ、いきなり一発食らってノックアウトはもう勘弁しろよっ!!」
男が意味不明な事を喚きながら立ち上がる。やはり生身での戦闘は得意では無いらしい。このまま畳み込めば楽に勝てる――そう思ったアタシの耳に、思いも寄らない言葉が飛び込んできた。
「そうか、聞いた事があるぞ。巫女装束で暴れ回る半鬼の『始末屋』の話」
「……ナニ?」
この男、アタシの事を知っている?
「図星だな。つーかソレしか無ぇだろ、そんな格好でこんな事やらかす奴は。で、誰に頼まれた?」
「聞かれたところで、答えると思うの?」
「思わねぇよ。一応、試しに聞いてみただけだ。それに、名前を聞いたところで思い出せる自信が無ぇ。何せ恨みなんて腐るほど買ってるからな」
くっくっくっ、と含み笑いを洩らす。癪に障る笑い方だ。
「まっ、たまにはこんな座興もいいだろう。遊んでやるよ」
ヤツは右手を突き出すと、挑発するように手招きをした。
「来いよ。『鬼さん、こちら』ってな」
「――だっ、黙れえぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
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