その少年が眠りつづけて、既に1週間が経過していた。原因はまったく不明。
身体的に異常は見られず―――それどころか学校ではバスケ部に所属し、インターハイの出場経験があるほどの運動神経を備えたまったくの健康体で、脳波にも特に変わった点は無い。
ただ夢を見ているだけ。それなのに、少年はこの1週間で異様な程に痩せ衰えており、点滴によって辛うじて命を繋いでいる状態だったが、それも長くは保たないと思われた。
まさにお手上げ状態である。少年の担当医である男はほとほと困り果てていた。
いっそサジを投げたかったのだが、少年の親はこの病院の出資者の一人で、しかもかなりの激情家だった。
下手な事を言おうものなら、無能扱いされた挙句に首が飛びかねない。実際、彼の逆鱗に触れてこの病院を辞めさせられた人間は数多い。中には方々に手を回されて、何処へ行っても雇ってもらえなくなった者も居るらしい。そんな目に合うのは御免だった。
医師は、考えに考えた末に院長に相談する事にした。院長ならば、この状況を打開する術を知っているかも知れない。まさに藁にも縋る思いである。最悪、院長を道連れにする算段でもあったのだが、とにかく自分一人で背負い込むには事が重大過ぎた。
医師の話を聞いた院長は、あからさまに渋い顔をした。
「まったく、厄介な事を……」
それは医師の方が言いたい台詞だったが、敢えてそれを口にはしない。
「このままでは遠からず衰弱死してしまいます、その前になんとか手を打たないと……」
「身体的には、まったく異常は無いのだね?」
医師は肯く。既に何度も確認した事だった。
院長はしばらく考えていたが、やがて何かを決心すると、手元の電話を取る。
「どこへ連絡を?」
「医学で解明出来ないならば、残る手段は神頼みかまじないか……取れる手は限られるだろう」
冗談とも本気ともつかない台詞だったが、恐らく本気で言っているのだろう、そう悟った瞬間、医師は自分の思い描いていた安寧な未来が音を立てて崩れていくのを感じた。
その病院は、道グループの医療部門に属していた。道グループに心霊現象や超常現象を扱った部門があるとの噂知っていた院長は、グループ総責任者に相談を持ち掛けた。つまり金のところに、である。
その話を受けた金は、一人の男の名を挙げ、その男に今回の件を担当させる旨を院長に伝える。
男の名は『九鬼』と言った。
医師は不安で不安で仕方が無かったが、とりあえず院長から聞いた『九鬼』という男を待つ事にした。
話によるとその男は、いわゆる霊能者らしい。医師は、霊魂の存在を信じていない訳では無かったが、少々不可解だと言うだけで何でも霊の所為にするような輩は嫌いだった。しかし現状は背に腹は替えられない状態である。
無事解決するなら儲け物、仮に失敗しても自分の責任逃れの口実に使えるかもしれない。
……そんな事を考えていた。
やがて現れた男は、医師の予想から大幅に逸脱した人物だった。
全身黒尽くめで、腰まで伸ばした髪を背後で束ねた大柄の男、その凶悪な面相はヤクザとでも言われた方がしっくり来るほどだ。あまりに怪しい男の雰囲気に呑まれそうになった医師だったが
「で、ガイシャの様子は?」
男の言葉で我に返る。ガイシャとは被害者と言う意味だろうか。例の少年の事を指して言っているのだろうが、被害者と言うからには加害者が存在するとでも言いたいのか?既に医師の理解の範疇を超えていたが、この際相手に話を合わせておくことにする。
「身体や脳にまったく異常は無く、眠っているだけの状態です。ただ、体力の消耗が激しく、点滴を続けていますがそう長くは保たないでしょう」
「ふ、ん。まぁ、まず間違いねぇだろうが……」
何が間違い無いと言うのだろう。この男には何か心当たりがあるとでも言うのか?
「現物を見た方が早いな。案内しろ」
一体何様のつもりだろうか、いきなり命令口調で言われるとは思わなかった為に腹が立ったが、何とか自分を抑える。
この手の輩とまともに遣り合った所で、こちらが馬鹿を見るだけだ。とにかく好きにやらせよう、そう心に決め、言われた通りに少年の病室の前まで案内する。
「ここか……」
男が病室のドアを睨む。何か見えるのかと思い、医師も男の視線を追うがそこにあるのは只のドアで、特に変わった点は無い。
「居やがるな……アンタはここまででいい。死にたくなかったら、病室には近づくなよ」
一体何が居ると言うのか、それも死の危険を孕んだ何かが。そこまで考えて、医師は思考を中断する。
この男が何を考えているかなど、医師には分かる訳も無いのだろうし、分かりたくも無いと思った。
知らぬが仏、と言うでは無いか。
「では、私は院長室でお待ちしておりますので」
それだけ言って、すぐさまその場から立ち去る。まるで逃げ出すように。
九鬼は、周囲に誰も居なくなったのを確認すると、ドアに手を掛け素早く室内に入り込む。そのまま
後ろ手でドアを閉め、室内を見渡す。少年の病室は個室で、中は意外と広いスペースが取られており、
ベットが1つポツンとあるだけだった。
まず窓に近づき、鍵がかかっている事を確認する。そして室内を一通りチェックした後、少年が寝て
いるベットに向かって声を掛ける。
「オイ、そこに居るのは分かってるんだ。さっさと出てこいよ」
だが、何の反応も無い。それでも九鬼は気にせずに続ける。
「しらばっくれても無駄だぞ、オレにはお前の姿がはっきり見えてるんだ。それとも、その体と心中
したいのか?オレはそれでも一向に構わんがな」
『この子ごと私を滅ぼすと言うの?正気とは思えないわね』
突如、何処からか声が聞こえたかと思うと、少年の頭上の空間が揺らいで女が姿を現わす。当然、
それが普通の女であるわけが無い。服ともボディペイントとも判別がつかない奇妙な衣を身に纏い、
頭には奇妙な角のような物が生えている。何より特徴的なのは、背中から生えた一対の蝙蝠の翼だった。
―――夢魔。人間の夢に寄生し、じわじわと精気を奪う妖魔である。
淫魔、あるいは誘惑者とも呼ばれる彼らは、男女共に非常に美しい外見をしており、心の弱い人間を
一瞬で虜にしてしまう。だが人の精神に干渉する特殊な能力を持つ反面、戦闘力の点で言えばほぼ無力
に近い存在だった。九鬼の敵になどなり得ないほどに。
「一体、何が目的なの?」
言葉を媒介として相手の精神に干渉するのは、夢魔の常套手段だ。だが、そんなバレバレの手が本職の
退魔士に通用するはずも無く、夢魔の干渉はあっさりと跳ね除けられた。
口元に余裕の笑みを浮かべた九鬼は、わざと寛大な様子を見せる。
「なぁに、お前がその体を解放すればいい。それだけの話だ」
「私に、折角の獲物を手放せと言うの?それで何の見返りがあるのかしら」
唯一の対抗手段を破られたにも関わらず、夢魔は焦る様子も見せず九鬼に問い掛ける。
その落ち着き払った態度が九鬼のカンに障った。思わず語気が強くなる。
「今なら、殺さないでやるって言ってんだよっ!!」
「承服しかねるわね」
九鬼の中に苛立ちが募っていくが、そんな心とは裏腹に、顔には歪んだ笑みが浮かぶ。
この手の女は、人間だろうが妖魔だろうがムカツク。だがムカツク女をいたぶるのは彼の楽しみの一つだった。
「フン、手前の力でオレに勝てると思ってるのか?」
口の端が自然に釣り上がり、悪魔のような形相を作り上げる。
精々悪あがきをしてオレを楽しませてくれよ。そう言いたげな顔だ。
「自分の力は理解しているわ、それほど自惚れてはいないつもりだけど」
「……なら、どうする?」
ジリジリと間合いを詰める。この状況で夢魔が取り得る手段はただ一つ。
だが夢魔の思い通りにさせる気は毛頭無い。
「こうするだけよっ!!」
狩りの時間だ。
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