月明かりに照らされた山間の道を、1台のバイクが疾走する。
最後に対向車とすれ違ってから、すでに1時間以上が経過していた。
周囲には人家の明かりは無く、ただ青白い月の光と、黒々とした山の影だけが続いている。
「こんな山奥に別荘とはな……大層なこった」
バイクを駆る男が、誰に言うともなく呟く。
その言葉に応えるように突然、山間に異形の影が浮かぶ。
目的の別荘……それは、こんな山奥には不釣り合いなほどの威容を誇っていた。
ヨーロッパの古城すら連想させるその館は、闇の中、月の光に照らされて不気味な佇まいを見せていた。
男の頬が突然歪み、牙のような犬歯が覗く。
その表情は、笑み。例えるなら悪魔の笑い。
一体何を感じ取ったのか、獲物を見つけた狩人のように……いや、これから訪れるであろう殺戮に歓喜するように、笑った。
その前日―――――
場所は、中華系巨大企業「道(タオ)グループ」の東京本社、社長室。
その無意味に広い室内に、独特の訛りがある日本語が響く。
「お呼び立てシテ申し訳ありませんでしたネ、九鬼サン」
その言葉の主こそ、この部屋の主。道グループの社長『金 道福(チィン・タオフー)』である。
大きく腹の突き出た体を成金趣味のスーツに包んだその男は、饅頭のような顔を奇妙に歪ませ、何とも表現しがたい表情を浮かべている。その奇妙な表情は一応、笑顔の体裁こそ持ってはいたが常に顔に張りつき変わる事の無いその表情から、男の内面を窺い知ることは出来ない。
そして金の正面、部屋のほぼ中央にある豪奢なソファーに、身を投げ出すように座る男が居た。
先ほど『九鬼』と呼ばれた男である。
黒く長い髪を背後で束ねた長身の男は、サングラスの奥に光る凶眼で金を睨むように見ている。
そんな視線をまるで無視して、金は話を続けた。
「自己紹介は必要ありませんネ?早速、本題に入りたいところデスが……」
一旦言葉を区切り、間を置く。
沈黙が訪れたその一瞬、部屋の空気が微かに揺れる。
そしてソレを待っていたかのように、金が口を開く。
「うちの沙龍(シャロン)が手荒な真似をしたヨウで……部下の非礼をお許しクダさい」
背後を指して言う。誰も居なかったはずのそこに、一人の女が立っていた。
耳がやっと隠れるぐらいの短い黒髪。細い眼鏡を掛けたその美貌は知的さを感じさせ、いかにも重役秘書といった雰囲気である。だが同時に、タイトなチャイナドレスに包まれたその肢体は妖しいほどの色気を漂わせている。
部分部分を見れば、これほど目を引く女はそうそう居ないと思われるのだが、何故か全体的に見ると存在感が希薄になる。
現に今も、言われるまではそこに居ることすら失念していたのだ。
……あれほどの屈辱を受けたというのに。
1時間ほど前、金の代理として九鬼の前に現れたのが、この沙龍と言う女だった。
縁も所縁も無い相手からの、突然の呼び出し。
有無を言わせぬその様は、まさに出頭命令そのものだった。
だが九鬼は、そんな相手に素直に従うような人間では無かったし、それよりも彼の興味は別のモノに向いていた。
目の前の女の身体である。
この澄ました女が自分の腕の下で悶え、泣き叫ぶ姿を想像しただけで下半身が熱くなった。
幸いにも女は一人。邪魔する者は周囲には居ない。
だが、彼の下卑た妄想が実現することはなかった。
組み敷こうとした男の腕を、女はいとも容易く躱し、さらに倍ほども体重差のある男を一撃で昏倒させたのだ。
一瞬の出来事。
意識が途絶えるその瞬間まで、九鬼には何が起こったのか理解出来なかった。
その九鬼が今、この社長室のソファーに座っている。
つまり彼は、拉致とも言える方法でここまで連行されて来たのである。
……嫌な事を思い出した。
女への復讐を誓いつつも、激昂を鎮め心を落ち着かせる。
チャンスは必ず訪れる。今はまだその時ではないのだ、と。
「単刀直入に申しますと……アナタに仕事を依頼したいのデス」
その声に、九鬼の心は現実の時間に引き戻される。
「仕事……だと?」
「ハイ、フリーランスの退魔士であるアナタに相応しい、仕事デス」
金の顔に、満面の笑みが浮かんだ。
|